日本の伝統文化である「月見」をテーマに、申請していた日本遺産。千曲市が令和2年6月19日、日本遺産に認定されました。
今年度は全国から69件の申請があり、千曲市を含む21件が文化庁や日本遺産審査委員会の厳正な審査を経て日本遺産に認定されました。
文化庁では、令和2年(2020年)までに全国で100件程度の日本遺産を認定することとしていて、今回が最後の認定となり、全国で認定された日本遺産は全部で104件となりました。
日本遺産とは
地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを「日本遺産(Japan Heritage)」として認定し、ストーリーを語る上で不可欠な文化財群を整備・活用し、国内外にその魅力を発信することを目的としています。
長野県の日本遺産
出典:https://chikuma-kanko.com/
全国で認定された日本遺産は104件。今回認定された千曲市、上田市を含めると長野県には4つの日本遺産があります。
千曲市以外は次のとおりです。
◆レイラインがつなぐ『太陽と大地の聖地』〜龍と生きるまち信州上田・塩田平(上田市)
◆木曽路はすべて山の中~山を守り 山に生きる~」
(南木曽町,大桑村,上松町,木曽町,木祖村,王滝村,塩尻市 )
◆星降る中部高地の縄文世界—数千年を遡る黒曜石鉱山と縄文人に出会う旅─」
(長野県(茅野市, 富士見町, 原村, 諏訪市, 岡谷市, 下諏訪町, 長和町, 川上村)・山梨県(甲府市, 北杜市, 韮崎市, 南アルプス市, 笛吹市, 甲州市)
「月の都 千曲」のストーリー
日本の伝統文化である「月見」をテーマに、文化・伝統を語るストーリーが構築されました。
千曲市内に点在する文化財群を整備・活用し、今後は「月の都 千曲」の魅力が発信されます。
文化・伝統を語るストーリー
日本遺産に認定されたストーリーは次のとおりです。
古来からある月見文化を楽しむのはもちろん、魅力あふれる「月の都 千曲」が奏でる新たな月見に、どんどん出かけることを呼びかけています。
日本人の美意識を表す「月見」。中でも、歴史的に文学や絵画の題材となってきた「姨捨山に照る月」、「田毎の月」は、日本を代表する月見の名所である。
姨捨は、地名の響きから、棄老伝説を語り伝えてきた。それは、月見にちなむ文芸への遊び心を鼓舞する一方、棚田での耕作や伝統行事を通じて古老の知恵と地域の絆を大切にする教えを育んできた。
すべての棚田に映る月影を1枚の浮世絵に表した歌川広重の摩訶不思議な「田毎の月」。そんな「古来の月見」や、「月の都 千曲」が奏でる「新しい月見」にでかけよう。
引用:https://www.city.chikuma.lg.jp/
「月見」をテーマに3つの柱
「月の都千曲」を語るストーリーは3つの柱からなります。
千曲市は、東西から迫る山の間を南北に千曲川が流れる狭長な地形に位置し、古来、人びとが行き交ってきた交通の要衝の地である。
また、千曲川の左岸にひときわ高くそびえる冠着山(古くは「姨捨山」と呼ばれた。)の麓は、「更級の姨捨山に照る月」、「田毎の月」と呼ばれ、古くから月見の名所として知られてきたところである。
ストーリーは、図に示すように
1.月見にまつわる”古人の「遊び心」”
2.棄老物語や棚田の耕作などの”先人の「暮らしの知恵」”
3.伝統を継承しつつ”今に生きる「月見の地」”の3つの柱のもとに「月の都 千曲」を紹介している。
引用:https://www.city.chikuma.lg.jp/
3つの柱 その1 古人の「遊び心」
3つの柱、まず1つ目 古人の「遊び心」をご紹介します。
ここからは、認定された内容を「ストーリー詳細」と記した千曲市提供の文書から引用してお届けします。3つの柱が詳しく説明されています。
憧れの月の名所
「我が心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」と平安時代の『古今和歌集』に詠われた更級の姨捨山は、現在の冠着山である。
当時、この地には信濃国から京の都に通じる主要な道「東山道」の支道が通り、麓には更級郡衙(古代の役所)が置かれていた。
ここを通る人びとにとって、姨捨山はランドマークであり、照る月を仰ぎ見て都から遠く離れた心情を和歌に詠んだことであろう。
和歌を通して姨捨山の月を知った京の都人らは、未だ見ぬ姨捨山に照る月を見たいと思うとともに寂しさや哀れを想い浮かべたことだろう。
「はるかなる月の都に契りありて秋の夜すがらに更級の月」と詠った、『新古今和歌集』の撰者で鎌倉時代の歌人藤原定家は、この地を「月の都」になぞらえて称賛した。
鏡台山に昇る月
江戸時代に、松尾芭蕉は姨捨の月を見に来て、棄老物語を題材に「おもかげや姨ひとりなく月の友」と詠み、『更科紀行』を著している。
芭蕉は、鏡台山から昇る月を見て詠んだのであろう。鏡台山は、月を鏡に、山は鏡を載せる台に見立てて名づけられた山である。
姨捨の長楽寺には、芭蕉の来遊以降、芭蕉の歩いた所を巡る文人や墨客が多数訪れた。境内には「芭蕉翁面影塚」の碑をはじめ、たくさんの歌碑や句碑が建てられ、彼らの月への想いと姨捨の「月の都」としての特質が伝わってくる。
摩訶不思議な「田毎の月」
5月下旬、田植えの前後に水が張られた大小さまざまな棚田に月が映る。この光景は、「田毎の月」と呼ばれ、この地域ならではの月見の表現である。
江戸時代の浮世絵師歌川広重は、すべての水田に月が映る摩訶不思議な情景を浮世絵に描いた。この浮世絵によって「田毎の月」のイメージが広く人びとに伝えられることになった。
実際には、一目ですべての棚田に映る月が見えることはなく、畔道を歩きながら目を移せば次つぎに田ごとに映った月影を見ることができるのである。
「田毎の月」が書物に現れるのは、戦国時代に越後の武将上杉謙信が川中島合戦の戦勝を祈願した願文が最初である。
棚田の背後の姨捨山に照る月を麓の八幡宮(武水別神社)から仰ぎ見た時の光景を、山の背後から阿弥陀如来が現れた情景として「田毎満月之景」と表現している。
当時の狂言本『木賊』にも、信濃国の名所の一つとして「田毎の月」が登場する。
3つの柱 その2 先人の「暮らしの知恵」
3つの柱、続いて2つ目 先人の「暮らしの知恵」をご紹介します。
棄老物語
平安時代の『大和物語』や『今昔物語集』には、年老いた母を山に捨てる棄老の山として登場する。
「姨捨山」という地名の響きと月への想い(寂しさ)が重なったのか、姨捨山の棄老は史実であるかのように語り伝えられてきた。棄老物語は親孝行を説く説話・文学であり、京の都人によって創り出されたものである。
古くは『続日本紀』に、更級郡の建部大垣が親孝行であったために税を終身免除されたことが記されている。このような物語や史実は、やがて父母や古老の知恵を大切にし、感謝する教えを育むものとなった。
姨捨の棚田
今見る「姨捨の棚田」は、先人の知恵や努力によって斜面が拓かれ棚田となったものである。
江戸時代の初め頃に、豊富な湧水を貯める「大池」が斜面の上流に築かれ、斜面全体に水田が拓かれるようになった。今でも、当時からの水利慣行によって、大池の水(「樋水」と呼ばれる)で耕作が行われている。
月に関わる信仰
冠着山頂にある冠着神社には月の神、月読の尊をはじめとする神々が祀られ、毎年7月下旬に地元の人びとが祭事を行っている。
この時期は、ヒメボタルが山頂に舞い、棄老物語を主題とする謡曲「姨捨」の老女の舞を想わせる幻想的な光景を見ることができる。
武水別神社は八幡神を祀っていることから、八幡宮とも呼ばれている。神社と通りを隔てた広大な神官の屋敷や、廃仏毀釈で廃寺となった神宮寺跡や、その末寺の佇まいが良く残り、神仏習合であった神社の姿を今に伝えている。
中秋の満月の頃、9月14日に神社で仲秋祭が行われ、毎年6~7地区の獅子舞神楽が奉納される。仲秋祭は、神宮寺の放生会に由来するといわれている。
12月10日から15日に、戦国時代から記録が残る「大頭祭」と呼ぶ新嘗祭が賑やかに行われている。祭りや棚田の耕作は、地域の絆を育んでいる。
稲荷山の伝統的建造物群をはじめ市内の街かどには、「二十三夜塔」と刻まれた約50基の石碑が建てられており、かつて月待ちの行事が盛んであったことを物語っている。
月待ち行事は、信心の仲間が集まって月の出を待って祈願する行事で、石碑は行事を記念して建てられたものである。
3つの柱 その3 今に生きる「月見の地」
3つの柱、最後は 今に生きる「月見の地」をご紹介します。
伝統的な月見の場所
長楽寺は芭蕉の来遊以降、多くの人びとが鏡台山に昇る月を愛でるようになり、月見の行楽地となった。
江戸時代の旅人菅江真澄は、境内の「姨石」と呼ぶ高さ20mの大きな岩の上に人が登り、鏡台山から昇る月を眺め、歌会や月見の宴を開いている様子を『わがこころ』に書き残している。
宴の様子が残る『善光寺道名所図会』には、長楽寺から望むことのできる山や岩などの見所が「姨捨十三景」として紹介されている。その中には、境内の姨石・桂の木・宝ヶ池をはじめ、中景の更級川・雲井橋、遠景の冠着山・鏡台山・千曲川などがあり、俳句に詠まれた場所がみられる。
毎月、満月の前後には長楽寺月見殿でコンサートが開かれ、月と音楽の夕べを楽しむことができる。
中秋の満月の前後には、長楽寺を中心に観月祭が行われている。境内は、月見や吟行をする人びとで賑わう。
新たな月見の場所
標高547mに位置するJR姨捨駅のプラットホームからは、千曲川対岸の山並みから昇る月を眼の高さに望むことができ、絶好の月見の場所であり、まさに「月の駅」といえよう。
急傾斜地に設けられた駅なので、今では珍しいスイッチバック方式でプラットホームに入る。列車の車窓からは、長野盆地を見下ろす大パノラマを眺望することができ、日本鉄道三大車窓の一つである。
近年では、高速道路の姨捨サービスエリアが新たな月見の場所として注目され、眺望や夜景を楽しむ人で賑わうようになった。
名月を見て心を癒し、竹久夢二や志賀直哉など文人らも逗留した千曲川河畔の戸倉上山田温泉で疲れを取り、地酒や真っ白なさらしな蕎麦、おしぼりうどん、おやきを味わうのも旅の楽しみである。
月への想いは、時を超えて現代の私たちに伝わり、将来もまた千曲市は新たな「月の都」であり続ける。
ストーリーを構成する文化財群
「月見」をテーマに文化・伝統を語るストーリーが構築されました。文化財群を活用し「月の都千曲」の魅力が発信されます。
古人の「遊び心」 月の名所 和歌・俳句
長楽寺境内と歌碑群(国-名勝・重要文化的景観)
長楽寺境内に建つ「芭蕉翁面影塚」は、明和元年(1769)に松尾芭蕉の門人加舎白雄、地元有志により建立。以後、境内に 45 基の文学碑が建てられ、独特の雰囲気を創り出している。
古人の「遊び心」 摩訶不思議な「田毎の月」 浮世絵・錦絵
歌川広重 浮世絵「信濃更科田毎月鏡台山」
『六十余州名所図会』所収の「信濃更科田毎月鏡台山」の浮世絵。全ての水田に丸く月を描き、「田毎の月」を見事にイメージ化した。
まさに浮世絵師広重の技、遊び心である。
揚州周延 錦絵「更科田毎の月」
「更科田毎の月」は、鏡台山に昇る満月を長楽寺境内の月見堂から月見する女性たち、水田の水面に映る「田毎の月」、畔道を歩く芭蕉と門人越人を描く。
先人の「暮らしの知恵」 棄老物語 父母や古老の知恵に対する感謝の教え
藤原信一 教訓画譜「姨捨山之図」
教訓画譜「姨捨山之図」は、男に背負われた老婆が枝を折り、男が帰る道しるべとしている場面を描き、親孝行を説く。
先人の「暮らしの知恵」 姨捨の棚田耕作
姨捨の棚田(国-名勝・重要文化的景観)
戦国時代には一部に沢水を使った水田が拓かれ、水面に映る月影が「田毎の月」と呼ばれた。
斜面全面に水田が拓かれたのは、江戸時代の初めにため池が造られ、農業用水が確保されてからのことである。
大池(国-重要文化的景観)
江戸時代初めに湧水を貯める大池が造られ、斜面全体が水田化された。大池から更級川で棚田の上部まで水を流し、水路網で配水し耕作され、現在に引き継がれている。
更級川・分水工・用水路(国-重要文化的景観)
更級川は、弁財天の湧水を水源として流れ下る自然河川。ため池が造られてからは、貯えた水(樋水という)を棚田近くまで流し、大口分水工などから用水路に引き込み利用している。
先人の「暮らしの知恵」 月に関わる信仰
武水別神社 高良社本殿(県-有形文化財(建造物))
武水別神社境内には、室町時代の摂社高良社本殿が残る。
当時の連歌師飯尾宗祇は、八幡宮の連歌会で、「・・・姨捨山に秋の月」と詠んでいる。その頃神社では、連歌会が行われていたことがわかる。
また、永禄7年(1564)上杉謙信は、この境内から冠着山に照る月を見て、川中島合戦の戦勝祈願を行っている。
武水別神社 神主松田家館跡(県-史跡)
戦国時代に上杉景勝によって稲荷山城が築かれ、景勝から松田氏に在城と八幡神領の管理が命じられた。その頃築かれた居館が松田家館である。
江戸時代になると、松田氏は神職となり、現在に引き継がれている。
武水別神社 神宮寺跡
江戸時代までは神仏習合で、神宮寺が権勢を持ち、神職の松田家とともに武水別神社の運営を執行していた。
明治時代の廃仏毀釈により、神宮寺は消滅したが、その頃の建物が今に残る。長楽寺も、神宮寺の末寺である。
武水別神社 仲秋祭
毎年9月14日の中秋の満月の頃に、武水別神社の仲秋祭が行われる。満月の下で、近在の獅子舞神楽 6~7 頭、神社に奉納される。境内では仕掛け花火が披露され、人びとで賑わう。
武水別神社 頭人行事 大頭祭(国-記録選択)
毎年12月10日から15日に新穀を神前に供える祭で、400年以上毎年欠かすことなく行われてきた。
武水別神社の氏子は、旧3カ村21集落、現八幡・更級・五加地区の人びとで構成されている。その中には姨捨の棚田地域の耕作者も含まれており、水利組織と祭祀圏が重層的に結び付き、地域の絆を育んでいる。
大池の百八灯
棚田の上部の集落には、毎年8月16日に108つのワラ束の送り火を焚いて、松代藩真田信之の妻小松姫を供養する行事が江戸時代から続いている。
大池や棚田開発など松代藩との関係の中で行われ、今も引き継がれている。
稲荷山の街なみと祇園祭(国-重要伝統的建造物群)
江戸時代、善光寺道の稲荷山宿として栄えた宿場町である。商売繁盛を願い祇園祭が行われたが、弘化4年(1847)の善光寺地震で途絶えた。明治に復活し、今に引き継がれている。
今ある建物群は、地震後に建てられた防火対策を施した土蔵造りの建物群である。表通りは、両側に町家の主屋が並ぶ。裏通りには蔵が並び、ゆっくりと散策できる。
月待ち行事-二十三夜塔
市内には、50基もの二十三夜塔が存在し、月待ち行事が盛んであったことがわかる。稲荷山地区には、今でも行事を行っているところがある。
冠着神社と遥拝所
宝暦4年(1754)に山頂に社殿が建てられ、月読尊が祀られた。今でも麓の人びとによって毎年7月下旬に祭事が行われている。
明治になって、冠着山が姨捨山だという議論の中で、明治26年(1893)に、麓の羽尾地区に遥拝所が建てられた。明治27年には、商都稲荷山の表通りにも冠着神社遥拝所の石碑が設置された。
今に生きる「月見の地」 伝統的な月見の地
冠着山(姨捨山)
千曲川左岸にある標高1,252mの山。古くは姨捨山と呼ばれ、「更級の姨捨山に照る月・・・」と和歌に詠まれた都人の憧れの月の名所であった。
江戸時代に、山頂に冠着神社(月読尊)が祀られ、冠着山と呼ばれるようになった。
鏡台山
千曲川右岸にある標高1,269mの山。中秋の満月が山頂付近より昇ることから、山名の由来となった。
江戸時代になって、鏡台山から昇る月を松尾芭蕉が俳句に詠み、歌川広重が浮世絵に描いた。
東山道の支道
古代に設けられた東山道と北陸道を結ぶ支道。冠着山の支尾根を越え、本市を通り、善光寺平を経て北陸道へとつながる。
この道を通して、「姨捨山に照る月・・・」が都に伝わり、月の名所として知られるようになった。
八幡遺跡群 更級郡衙推定地
千曲市大字八幡字郡付近に推定されている古代の更級郡の郡衙跡。
付近に武水別神社や社宮司遺跡があり、掘立柱建物跡や六角宝幢などが出土。都との往来があったことがわかる。
北国街道脇往還善光寺道(国-選定歴史の道)
中山道と北国街道を結ぶ主要な街道で、善光寺参りや伊勢参りの人びとで賑わった。芭蕉も木曽路から善光寺道を通り、姨捨へ月見に来遊した。
姨捨十三景
江戸時代、長楽寺から望める見所などの十三景が成立。境内の姨石・桂の木・宝ケ池、雲井橋・姪石・更級川、冠着山・鏡台山・更級の里・千曲川などが数えられる。
※伝統的な月見の地として「長楽寺境内と歌碑群」を再掲
今に生きる「月見の地」 新たな月見の地
姨捨駅 駅舎
鉄道は明治33年(1900)に開通、現駅舎は昭和9年(1934)の建築。駅付近の眺望は「日本鉄道三大車窓」の一つ。
ホームからは、対岸の鏡台山から昇る月が良く見える。まさに、月の駅である。
冠着山のヒメボタル生息地
陸生のホタルで、冠着山の山頂付近に生息。7月下旬の夜に乱舞する様子は、月読尊の化身とも思えるような情景である。
笹屋ホテル別荘(国-登録有形文化財)
温泉は明治元年に千曲川の河原で発見され、明治26年戸倉温泉、明治36年上山田温泉が開湯した。総称して戸倉上山田温泉と呼ぶ。
笹屋ホテルには、志賀直哉をはじめ多くの文人・墨客が滞在した。昭和7年、建築家・遠藤新が設計した近代和風旅館建築の先駆けとなった建物である。
今でも宿泊することができる。温泉で旅の疲れを癒し、郷土料理を楽しむことができる。姨捨の夜景ツアーも利用できる。
戸倉上山田温泉 笹屋ホテル 楽天トラベル
じゃらん
Yahoo!トラベル
長野銘醸酒蔵(国-登録有形文化財)
善光寺道沿いの中原にある、元禄2年(1689)創業の造り酒屋。今も棚田と同水系の湧水を使い酒造りが行われている。
坂井銘醸酒蔵(国-登録有形文化財)
北国街道沿いの下戸倉宿にある造り酒屋で、宝暦10年(1760)頃に建てられた茅葺の主屋が残る。
芭蕉門下の加舎白雄が長く逗留したことから白雄関係資料や、竹久夢二関係資料が多数所蔵され、酒蔵を改装した資料館で見学することができる。
千曲川のハヤのつけ場漁
江戸時代から、千曲川中流域での漁法「つけ場」である。獲った「赤魚」(ハヤ)の塩焼き・天ぷらなどを河原の季節小屋で食べるのは、野趣あふれる千曲川の恵みの一つ。
蕎麦・おしぼりうどん・おやき(県-選択無形民俗文化財)
白い「さらしな蕎麦」は、白く清涼さをイメージし、「さらしな」の地名から名付けられたと言われている。
市域では蕎麦も食べられるが、二毛作が行われていたので小麦のうどんやおやきの方がよく食べられ、今ではおやき専門店もある。
大根のしぼり汁で食べる「おしぼり蕎麦・うどん」は、心地よい辛味がたまらない当地域限定の一品。
日本遺産の活用
地域の歴史的魅力や特色を通じて、伝統や文化を語るストーリーを文化庁が認定する日本遺産。平成27年度から認定を行い、今年度認定分を含めて全国で104件、長野県内では4件が認定されました。
千曲の魅力を発信
今後、千曲市ではストーリーに位置付けられた文化財群を整備・活用し、その魅力を発信することにしています。
これから、益々魅力あふれる千曲市へぜひお越しください。